2013/11/14

現代訳 無門関 / 魚返善雄訳


現代訳無門関」を読みました。サブタイトルは「禅問答四十八章」です。

無門関」と呼ばれる禅宗の有名な公案集があり(13世紀頃に書かれたものとのこと)、この本はその「無門関」の日本語訳版です。魚返善雄さんという文学研究者の方が1965年に書かれたもので、僕は2013年刊の新装丁版を読みました。


少し前から続けている座禅と仏教の勉強の一環で、禅宗の「公案」についても理解を深めたいと思い、読んでみました。


本の内容は、まえがきとあとがきを除けば、あとはそのまま無門関です。無門関の公案が原文付きで1から順番に48個紹介されています。


この本がすばらしいのは、なんといってもオリジナルの無門関のニュアンスが考慮されている点です。私はかつて漢文バージョンの無門関に挑戦したことがあるのですが、漢文があまりにも難し過ぎて、公案の難しさに対峙する前に漢文の難しさで心折られてしまいました(考えてみれば当たり前ですが・・・)。

その点、本書では原文の漢文としての難しさは取り払われており、それでいて公案としての味わいは失われず、さらに!日本語としても洗練されていて口語調なのに美しい!という、なんだかすごい一冊です。日本語訳にピンとこなければ原文にもあたれるという、なんとも隙の少ない感じです。

出版は1965年と今から半世紀も前に出版されたものだったので、「言葉遣いがちょっと古い感じかな」という懸念があったのですが、全くの杞憂でした。いい具合にくだけていて現代的な言葉で書かれていたので、発刊年を疑って著者紹介欄を二度確認してしまいました。


以下、感想に入る前に、禅の「公案」というものについて少しだけ。

公案」とは。公案とは、禅宗で使われる問答エピソードのことです。いわゆる「禅問答」のネタのことで、「昔々、禅僧のだれそれがこうこうこういうことをしました。それはなぜでしょうか?」といった形式の、ごくごくシンプルなものです。

例として、本書の中からひとつあげてみますと。

馬祖さまは、坊さんが「どんなのが仏で?」と聞くので、いうには「心でも仏でもない」
場祖・・・昔の禅宗のお坊さん

公案本体はたったこれだけ。字面だけ読むのならほんの数秒で終わってしまうようなものです。

でも、公案のポイントはただ読むことではなく、「なぜか?」を自分の頭で考えてみるところにあります。そのおもしろさは知ってみてのお楽しみ、ですが、最初から本にトライするのはあまりおすすめではありません。私の場合は禅寺での法話で公案について少し知っていたので、公案本もわりとすんなり読むことができました。その経験がなければちょっとつらかったかなと思うので(その経験があっても大半は意味わかりませんでしたが)、もしこれから公案本に取り組むなら、最初は禅寺の和尚さんに教えてもらうのがいちばんです。

公案についてもっと深く掘り下げたい場合は、Wikipediaの公案に関するページが参考になるかと思います。


ちなみに、日本の禅宗は大きく分けて2派——臨済宗と曹洞宗がありますが、公案を扱うのは前者の臨済宗だけで、曹洞宗の方では扱わないようです。臨済宗と曹洞宗にはこの他にもさまざまなちがいがあり、調べてみるといろいろおもしろいのでご興味があればぜひ。

以下、本書の感想と、本書をきっかけに思い出したことや考えたことをいくつかあげてみます。

わかったようなわからないような・・・

本書を読む前から公案にはいくつか触れてきており、考える上での方向性というか解法の切り口のようなものは少しつかめてきたつもりでしたが、本書を読んでみたら、やっぱりよくわからなかったです笑

これが公案のおもしろさでもあります。

公案によって得られるのは答えではなく・・・

なぜ禅宗では修行僧たちに公案を課題として課すのか。公案に取り組むと何がいいのか。公案のメリットは何か。今回この本を読んで、このあたりのことが少しわかったような気がしました。

公案は、答えを暗記すればそれでOK、というものではありません。むしろ、禅の公案に取り組むことで身に付くのは次のようなもののようです。
1)正解がわからないような問題について自分の頭で考える力
2)納得いく答えが得られずモヤモヤした気持ちを受け入れる力
3)この世の中に絶対唯一こうだと言い切れるものなんてないという認識

以下、順番に取り上げていきます(いずれの長文になってしまいました)。

1)正解がわからないような問題について自分の頭で考える力。世の中には、正解がパッとわかるような問題とそうでない問題とがあって、そうでない方の問題に取り組むのはなかなか骨が折れます。たとえば、今あなたが病気の診断をされて「あなたの余命はあと○年です。残りの時間を大切に使ってください」という投げかけがされたとき。残りの時間で何をするのか、どう過ごすのかには、唯一絶対の答えはありません。そうなったときに一人ひとり自分で自分なりの答えを見つけなくてはなりません。Google検索でも出てきません(出てくるかも)。どんなに慎重にじっくり考えたとしても、あとあと、最期の瞬間にその答えに納得できるか、というとその保証はありません。でも、刻一刻と時間は減っていくし、早く自分なりに答えを見つけないと——これは極端な例ですが、人生にはこの類の「正解がわからないような問題」が忘れた頃にやってきます。そういう問題に対峙したときに逃げ出すのではなく、誰かが考えた模範解答に飛びつくのでもなく、目をそらさずじっくりと向き合う。そういう力はきっと人生で役立ちます。公案で鍛えられる力のひとつはこういう力です。

2)納得いく答えが得られずモヤモヤした気持ちを受け入れる力。「モヤモヤを受け入れる」——これも公案で鍛えられるひとつの力かと思います。近代的な考え方では、問題は解決するもの、モヤモヤは解消するもの、という考え方をします。私自身、ビジネスの文脈ではロジカルシンキングや問題解決の技術が好きで好んで使います。でも、そういう主体的な姿勢では解決できずどちらに転んでも結局モヤモヤする問題や、そもそも解決ができない問題なんかも、長い人生の中では少なからず起こります。がんばって決断して行動を起こしても、あとから「あれで良かったんだろうか。どうだったんだろうか」とモヤモヤする。職場の仲間や大切な人の気持ちがわからなくてモヤモヤする。そういうときに、何でもかんでも解決/解消してスッキリしようとするのではなく、逆にモヤモヤをそのまま置いておく、というやり方があるよ。そういうことを公案は教えてくれます。公案には、学生の頃の計算ドリルや資格試験の問題集のように、最後のページの答え欄は載っていません。自分なりに答えを出しても、それがベストの答えのような、そうでないような、自信が持てない感じになります。西洋哲学の場合なんかは、自分なりに納得のいく答えが出せればある意味OK、スッキリ、という場合もありますが、公案の場合は「そもそも何が問われているのかわからない」笑ということもあるので、答えが出たような出てないような・・・という感じで、いいのか悪いのか、得られるモヤモヤ感はかなり高めです。こういうモヤモヤを受け入れることも、公案の意義のひとつなのでしょう。

3)この世の中に絶対唯一こうだと言い切れるものなんてないという認識。これも公案によって学べることのひとつです。無門関の公案のひとつに、「仏(仏性)とは何でしょうか?」と問われた禅僧が「クソかき用のヘラですわ」と答えるものがあります。仏教のお坊さんなんだから「仏とは何ですか?」と問われたら「何よりも尊いものです」的なニュアンスの答えが返ってくると期待したら、よりにもよって「クソかきベラ」笑。これは何も「仏なんて価値のないものですよ」という主張をしているわけではありません。このあたりが禅宗のおかしさのひとつです。人が日常生活をうまくやっていくうえで、「赤信号は止まれの合図」「熊は危険」などという「○○は○○」という認識の蓄積は不可欠ですが、でも逆にいえば、そういう認識の蓄積(=フレーミング)が人の世界の見え方を制約し、その人の喜びや悲しみ、生き方を決めるという面もあります。「当面の見方ではこう」というのは持ちながらも、「それは絶対唯一のものではなくただひとつの見方にすぎない」というメタな認識を持っておくことが、より柔軟でハリのある禅的生き方につながるように思います。

臨済宗=座禅+作務+公案・・・

乱暴にまとめてしまうと怒られてしまうかもしれませんが、、わかりやすくキーワードでまとめると、臨済宗=座禅作務公案、です。禅といえば座禅(瞑想)の部分だけ取り上げられることが多いようですが、本来はこのどれが欠けても不十分なもののように思います。もちろん、「全部を必ずみっちりやらないといけない!」なんてことはなくて取り組み方は人それぞれ、その人に合ったスタイルでよいとは思いますが、座禅だけ、作務だけ、公案だけではカバーできない部分がどうしてもあるように思います。このあたりはまたおいおいまとめられればと思います。

以上です。

一度読んではいわかりましたーという感じにはならなさそうなので、また読みたいと思います。意訳の部分が賛否わかれるところかなとも思いますが、良書でした。

カンフーとどうつながっているかはわかりませんが、趣味でムリクリつなげると
Don’t think, feel. It’s like a finger…




Everything is kung-fu.


ですかね笑

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